質問: イエスが罪人の友だというのはどういう意味ですか? 答え: イエスが罪人の友と言う事実はイエスは私たちの友で、私たちがその臨在を認めて、イエスがいつもいて下さることを認識するのを願っておられるという意味です。 私たちへの神の愛は想像に達しないほどです。 主イエスの友(8) トマス① . ②キリスト証言として詩篇を味わう. 聖書黙想①友イエスとともに歩む(ヨハネ福音書15章1-15節)

創世記を読むと、神様が世界を造られ、この世界の中に人を立てられたと記されています。そして、この人と世界を御覧になり、極めて良かったと言われました。そのような神様の御心は時間と空間を越えて今もなお、有効です。造り主である神様は今もこの世界と人々を愛しておられます。そして、神様に寄り掛かる人々を積極的に探しておられます。私達の目に見えず、我々の耳に聞こえず、我らの手で触れることはできませんが、それでも心の目と耳とを通して私たちに訴えておられます。『私はお前の味方だ。私を信じなさい。私のところに来なさい。』今日、私が伝える、この説教が御父の切実な呼び掛けだと信じます。神様はあなたを愛しておられます。神様はあなたの味方になることを望んでおられます。皆があなたを棄てても、この神様のみはあなたのために最後まで待ってくださり、あなたを抱き締めてくださるのでしょう。今日も、あなたの味方になるために待っておられる神様を忘れない皆さんになりますように切に望みます。1942年6月5日、太平洋戦争の一番大きな戦いであったミッドウェイ海戦が起きた日、淵田美津雄は盲腸炎のため、戦闘に参加できず、やっと生き残って護送されました。病院で回復した彼は地上職に配属されます。しばらくして戦争は終わりました。退役後、上京した淵田は、ある日、渋谷駅前で、あるアメリカ人に出会うことになります。「私は4年間、日本軍の捕虜でした。」 まだ日本語が上手く話せなかったアメリカの伝道者。彼は日本本土を爆撃した特殊部隊の乗務員であったジェイコブ・デシェーザーでした。アメリカを攻撃した淵田と日本を攻撃したジェイコブが東京・渋谷のど真ん中で出会ったのです。『敵を愛しなさい』というイエス・キリストの言葉に感銘を受けたジェイコブは伝道のために渡日したわけです。その日、淵田はジェイコブから伝道パンフレットをもらいます。その後、淵田もパンフレットの主の御言葉に感動し、聖書を買って読んで神学をして、日本基督教団の牧師になりました。皇軍の士官がアメリカの宗教の手先になったと刃物を持って殺しに来た戦友は淵田に伝道され、長老となったと言われます。結局、戦争のせいで、互いに敵であった彼らはイエス・キリストを信じて、皆、伝道者、信仰者となりました。最後に皆さんにある実話を話したいと思います。 1941年12月7日、旧日本の連合艦隊は、ハワイを空襲しました。まさに真珠湾攻撃です。その空襲の先頭には、淵田美津雄という軍人がいました。ハワイの上空に入っていった淵田は、米軍基地に爆撃を加えました。同時に彼の口から暗号が沸き起こりました。「トラ・トラ・トラ」 その日、日本海軍は、アメリカ海軍に大きな勝利を収めました。この真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まります。戦争の序盤、アメリカは日本にひどく敗れました。半年くらいの時間が経ち、参謀たちと戦略を練ったルーズベルト大統領は、日本本土攻撃を命令します。 B25という爆撃機16台に80人の特殊部隊を前面に出してドーリットル中佐の指揮下に日本に進撃します。その時、初めて東京をはじめ、横浜、名古屋、神戸等の大都市が空襲によって破壊されました。ところで、日本を空襲した特殊部隊員の中にジェイコブ・デシェーザーという人がいました。この時、空襲に参加したアメリカ軍の乗務員は殆ど中国に脱出して帰還しましたが、捕虜となった人も8人いました。その時、ジェイコブも捕虜となりました。このような神との断絶は、人間の罪となると共に、不幸となります。イエス・キリストは、このような断絶という罪から私たちを救われるために来られた方です。神様は人と美しい関係を結ぶことを望んでおられます。この関係を結ぶために、イエス様が来られたのです。『私は葡萄の木、あなた方はその枝である。人が私に繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』(ヨハネ15:5)イエス様は神様と断絶した人間の罪を赦し、再び父なる神様と人の関係を初めに戻すために自らを犠牲にした方です。主は人間の誤ちを元に戻し、神の怒りを静めるために十字架を背負い、死なれました。全く罪のない御子が人の罪のために貴い血潮を流されたのです。この詩編を作成した人は、「主に感謝せよ。」と言っています。「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。」という言葉のように、神様がご自分の民を助けてくださったからです。また、詩編の著者は、「主は私の味方、私は誰を恐れよう。」と書き、神様がご自分に寄り掛かる者の味方になってくださるとも書きました。皆さん、私たちが信じている神様は、単に多くの神々の中の一人の神様ではありません。旧約聖書の創世記は、神様が天と地と万物を造られたと証言しています。イスラエルという民族が生まれる前から、いやこの世界が形を持つ前から神様はおられました。そして、この神様は、初めから終わりまで全てを治められ、愛と正義を通して、世を統治される全能なる御方です。そのような神様が直に(じかに)ご自分に頼る者のために味方になってくださると仰ったのです。この果ての無い広々とした宇宙で、ただ小さい一点のような地球の片隅にある志免町で、目に見えてもいないほどの小さな私たちのために偉大な神様が味方になってくださると仰ったという意味です。今日の旧約聖書の本文である詩篇118篇はイスラエルの民が強大な国に征服され、70年近くの非常に苦しい時代を経た後、解き放され、再びイスラエルに戻って来て、神様に捧げる礼拝のために作成した詩です。大国の捕囚になったイスラエルが、故郷に帰って来て、非常に長く悲しい記憶を後にし、最後まで民を見守り、再び礼拝できるように助けてくださった神様に感謝と愛を告白する詩です。昔、イスラエルを征服し、イスラエルの民を捕囚として連行した国、バビロンは、イスラエルの力では絶対に勝つことができない強力な国でした。その国が自滅しない限り、100年も1000年も続く強力な国であったのです。しかし、聖書では、神様が、ペルシャのキュロス皇帝を立てられ、バビロンを滅ぼされたと記されています。そのキュロス皇帝はバビロンの征服後、バビロンとは違う方法で異民族が固有の文化や宗教を守ることを許しました。これによって、イスラエルは帰還することになりました。国家イスラエルは滅びましたが、神様はイスラエル民族を捨てられず、将来の準備をなさったのです。今日の旧約聖書の本文は、そのような状況の中で神を賛美するために作られたものです。何日か前、夕方の散歩道で、羽化しているセミの幼虫に出会いました。近づいている私を見てちょこっと動きましたが、逃げられませんでした。まだ、胴と翼が生乾きだったためです。7年という長い間を真っ暗な地底で育った彼は、もうすぐ飛び上がるところだったのでしょう。もちろん、私は何もせず、『頑張れよ!』と言ってそこを立ち去りましたが、もし、私が獲物を探している鳥だったら、このセミは餌食になってしまったかも知れません。このセミは今日、ある一抱えもあるような木にとまって楽しく鳴いたんでしょうか?それとも、ある鳥のフンになって寂しく土に戻っていったんでしょうか?セミの最後の夏を応援したい気持ちになります。このイエス様は、父なる神様によって復活され、主を信じる者に葡萄の木と枝のように密接な関係を結び、再び父なる神様と和解することが出来るように道を開いてくださいました。イエス様は生前、このように言われました。『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:13)イエス様は自ら言われました。 『私はあなた方の友人である。』 神様から離れ、罪人として生きなければならない人々に、イエス様は、ご自分の友達という言葉を通して、罪人が神様に戻ってくる道を作ってくださいました。そして、このイエス様を介して人々は父なる神様について知ることが出来ます。神様はイエス様を通して戻ってくる人々を単に捕虜や僕になさらず、イエス様の友達にしてくださいました。ですので、イエス様は、私たちを友人と呼ばれるのです。長い時間、次の段階を準備してきた人が、最後の段階で思いがけず、ひどい目にあって躓いてしまう場合があります。さらに将来が見えないようになってしまうこともあります。人の人生は『一寸先は闇』という諺のように未来は、いつも不透明です。この一匹のセミのように弱い存在が、まさに人間ではないでしょうか。明日、私たちはどうなっているのでしょうか。天地の造り主、全能なる神様は今日もこのような弱い者を招いておられます。セミより、はるかに大事なあなたを神様は愛し、守る事を望んでおられます。未来がまったく見えないあなたへ、あなたの未来に向かって共に歩んで行こうと語られる神様を紹介します。彼はイエス・キリストの父なる神様であられます。「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 (ヨハネ1:12)」 また、神様は私たちをただ御子の友としてのみ思われることではなく、さらに神の子となる資格まで与えられました。イエス様は、私たちをご自分の友に召され、最終的に父なる神様の子供になる資格をくださいました。ですので、もう罪人ではなく、神様を父と呼ぶことが出来る子としてのアイデンティティも許してくださったのです。神様と断絶して生まれた人間が神の御子を友と呼び、自分も神の子となること。それ故に、もはや罪の恐怖に震えないようになること。それが主イエスによって人に与えられた福音であります。私たちの信頼すべき友人、イエス・キリストは今日もご自分の友として、神の子として、あなたを呼んでおられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)あなたの心の戸口の前で待っておられるイエス様のお声が皆さんの心の深いところまで伝わることが出来ますように祈ります。しかし、一つ問題があります。人は自力では神様に至ることが出来ないということです。聖書には、このような言葉があります。『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。』(ローマ3:23)人は罪のゆえに、神様に至ることが出来ないということです。 「罪?私は何の罪も犯したことがないのに、なぜ罪を犯したと言うんだ?」と思っている方もいらっしゃるかも知れません。そうですね。私たちは、人を殺したこともなく、盗みなどの悪い行いをしたこともないかも知れません。しかし、聖書が語る罪というのは、単なる凶悪犯罪を示すことではありません。創世記には、人類を代表するアダムとエヴァが神様から離れた話が出てきます。神様は人とエデンの園の全ての木の実を与えてくださり、その代わりにたった一つのこと『善悪を知る知識の木の実を禁じる契約』を結ばれました。善悪の知識の実は、特別な力を持った物ではなく、神と人の契約の証拠品でした。しかし、人はそれに満足せず、神様が禁じられた知識の実を貪り、神様との契約を破ってしまいました。神様を無視し、自ら離れたのです。結局、これは神と人の断絶に繋がりました。聖書は、まさにこの神との断絶を罪と語っているのです。互いに憎みあった敵がイエス・キリストに出会い、友達になりました。淵田もイエスの友、ジェイコブもイエスの友となりました。そして、彼らは長い間、信仰の友達として生きて行きました。イエス様がこの二人をご自分の友に召されたからです。人々は互いに憎みあい、対立しますが、イエス・キリストの中では、誰でも友達になることが出来ます。そして、誰でも神の子になることが出来ます。人は出来ませんが、神様はお出来になります。聖書は父なる神様が信じる人の味方でだと証言しました。イエス様が私たちの友だとも証言しました。そして、その約束は今もなお有効です。この全てが、私たちを救われるためにこの地上に来られた主イエス・キリストの恵みのお蔭です。皆さんにこの頼もしい友達を紹介したいと思います。誰よりも信頼できる、私を愛してくださる、私の友イエス様を紹介します。一緒に主イエスを信じ、愛し、神の国に入るまでに歩んで行きたいと思います。今日、志免教会に来られた皆さんに神とイエスと聖霊の豊かな恵みがありますように祈ります。

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